愛憎の天秤

※18.4.14再掲/初期のマインドとナイトメアの話

 目の前にあった鏡を、男は拳を叩き付けて割った。ばきん、と硬質な音と共に彼を映した鏡が床に散らばった。その破片も足甲の踵で入念に砕く。そうして鏡が張られた台座の木材が現れた状態になって初めて彼、ダークマインドは安堵の息を吐いた。次の鏡も割らなくては。彼は仄暗い屋敷の中を迷い無い足取り進んでいく。先程切ったのだろう、ぽつぽつと紺青の血が包帯から巻かれた手から滲み落ちて、彼の歩んだ軌跡を示す様に一面に敷かれた赤い絨毯を紫に染めていった。
 何十枚割っただろうか。手の包帯が全て青に染まる程に彼は鏡を割り続け、そうして、彼はこの館の知る限り全ての鏡を割った。細かく鋭い欠片が埋まった手が鋭痛を訴えるが、そんな事は些事だった。鏡が無いという事実さえあれば良い。マインドは鏡が嫌いだった。正確に言うと、己の姿を映す物を嫌悪している。月の輝きを束ねた様な白金の髪に、整い過ぎた顔立ちは見た者が畏怖を覚える程だ。誰もが羨むその姿も彼にとっては嫌悪しかない。その様に作られているから当然だろう、としか思えない。全身を覆う黒いマントも、皮膚を覆う様に入念に巻かれた包帯も、自分の姿を見たくない表れだ。体のどんな部位も視界に収めたくない。それ程に、彼は自分の姿を嫌悪していた。
 とにかく、もうここに鏡は無い。周囲を軽く確認した後、彼は館の適当な壁にもたれかかり床に座った。彼はこの悪夢から眼が覚めるのを目を伏せてただ待っていた。

「なあんだ、割ってしまったの」

 暫くして突如響いたその声にマインドが俯いた顔を上げると、硬い筈の床が水面の様に揺らいで下からか細い少女の体が現れていた。彼女の全身がそこから出ると、床は何事も無かったか様に硬さを取り戻し、現れた少女のブーツがかつん、と軽い音を鳴らした。その少女は腕組みをし、不服そうにマインドを見つめている。
「……悪食」
 そう彼が吐き捨てると、彼女は逆に口角を持ち上げた。愉悦に染まった蛍光色の青い瞳が、彼女を人外足らしめている。少女は彼の主であり、彼にこの悪夢を見させているのものであり、夢魔――ナイトメアだ。
「諦めて頂戴、私はそういう生き物だから」
「……だからと言って、毎度似た様な悪趣味な夢を見せないで欲しいね」
「あら、別に私は同じ夢を見せようとはしてないわ。お前にとって"一番の悪夢"を届けているだけだもの」
 そう言ったナイトメアにマインドは敵意を隠そうともせず、射殺せる程にぎらついた瞳で睨み付けた。彼女と揃いの鮮やかな青い目が炎の様に燃えている。マインドはこの眼前で笑う、苦痛を彼に与え続ける少女を憎んでいた。

 ナイトメアはその名の通り、悪夢を糧とする魔法生物だ。夢を操る力を持つ彼女は眠りを必要とする数多の生物に様々な夢を届ける事が出来、そしてその生物の夢見が悪ければ悪いほど彼女にとって良質の味となり、力となる。
 そんな彼女が作ったダークマインドは、彼女の理想の騎士、そして最高の餌として作った生き物だ。
(だと言うのに)
 残念で仕方ない。彼の見る悪夢から生ずる彼の苦悩は何より甘美で、満たされる。他のどんな人間の夢だって彼の物と比べると見劣りしてしまう。けれども、最近は折角届けた悪夢も彼が鏡を割って脱してしまうのだ。それでも、その夢を見たことで生まれる彼の苦悩だけでも十分に美味しいものだったのけれど。
「もう、自分で悪夢を終わらせるなんて卑怯だわ」
「同族として創ってくれて感謝でも捧げるべきか?」
 本来ナイトメアの与える悪夢からは逃げられない。見た者は目が覚めるまで延々と苦悩するか、夢に精神が参って心が死ぬかのニ択だ。だが、ナイトメア手づから創った眷属として現界したマインドは、多少なり夢への干渉力を有していた。だから彼は鏡を割って夢を終わらせてしまう。本当なら、鏡は増殖を続けて館全てが鏡面と化す筈で、そして彼の真の姿――彼が最も忌んでいる、包帯の下の醜く引き攣った化物の様な姿をまざまざと映し出す物だったのだ。その時得られただろう苦悩の蜜は何より美味だったろうに、とナイトメアは眉を顰めた。
「そういう能力を持つとは想定外だったわ」
「それは僥倖」
「……どういう意味」
「マスターに逆らえて嬉しいって事さ」
 その発言にナイトメアは少し顔を曇らせた。この情動は、恐らくマインドが反抗的な態度をとり続けているからだ、と思った。理想の騎士として作ったのに、こうも自分を嫌うとは。手駒としてちゃんと動いてくれるかどうかも定かではない。
 一方、肩を竦めて言ったマインドは浮かない彼女とは対照的にくつくつと笑っている。笑う口元に軽く添えられた彼の手の出血は酷いが、彼が気にした様子は無い。彼の手に巻かれた包帯は最早何の役にも立っておらず、ぽたぽたと青い血が床に垂れ落ちていた。
「……お前は、ただ大人しく喰われてれば良いのに」
 そうぽつりと洩らしたのは、その手を見て思わず痛そうだと思ってしまったからだ。ナイトメアはそんな痛ましい彼の手を取ろうと、無意識に彼女の白い指先を伸ばした。そして瞬間、マインドはその手を弾いた。
「早く喰って失せろ、マスター。余計な馴れ合いはするつもりは無い」
「……ああ、そう」
 彼の言の通りに、彼の顔に緩く手を翳して、彼の苦悩を食んだ。翳したそこからぽろぽろと淡く光る粒子が零れ、ナイトメアの指先に染み渡る。極上の味だと思う。ナイトメアはこの瞬間が、彼と過ごす時間で一番好きだった。彼女の好物が食べられる時間だから、という訳では無い。この時ばかりは、いつも強く睨みつけてくる目は軽く伏せられているし、いつも棘のある言葉を吐く口は閉じられている。この時が、一番穏やかな時間だとナイトメアは感じていた。
(いつもこうだったら良いのに)
 或いは、その瞳が柔らかくナイトメアを見詰めて、その口からは甘く無くても良い、せめて毒の無いものが出されれば。そこまで考えて、ナイトメアは緩く首を振った。馬鹿らしい。そして、そんなに人らしい交流に飢えているのかと自嘲した。私は人ではないのに。

 マインドが目を覚ますと半円状の空間にいた。ナイトメアの食事が終わったから目覚めたらしい。眠っていた筈なのに体が重い。夢の中でも現実と同じ様に動き回るのだから、休まる暇が無い。いっそ死んだ様に深い眠りにつければ良いものの、体質なのか彼はいつも眠りが浅かった。恐らく、ナイトメアにその様に作られているのだ。
 周囲を見渡したが、ナイトメアの姿が見えなかった。珍しいと思い、眉を潜めた。ここはナイトメアが拠点としている夢の泉の水底だ。泉に潜り少し抜けると、この空間に出る。泉の黒い水はこの空間を避けて半円状のドームを描く様に上から零れ落ちていて、外からの淡い光をほんの少し反射して煌く様はプラネタリウムだ。夢が集約する泉の底は夢魔の眷属であるマインドにとっても、安らぐ場所だった。主であるナイトメアも恐らくそうで、食事の時――他者の夢に入っては貪る時以外はあまり外に出ない。
(……探すか)
 そう思ったのは何となくだ。マインドは空間の中央へ向かった。床の中央には小さい祭壇があり、泉の水がほんの少しだけ張られている。そこに一歩足を踏み出せば、外へ出られる。黒いブーツの先が水に浸かると、マインドが瞬き一つする間に外へ移動していた。
 眼前に、虹の色を帯びたオーロラが紺青の夜空に揺らめいている。レインボーリゾートの名に相応しい綺麗な光景だ。そこに生える木々は緑では無く、夜の色をした葉を生い茂らせている。その中でも奥地の祭壇の中にある夢の泉は幻想的で美しく、神聖だ。かつては澄んだ水がこぽこぽと祭壇から溢れていたらしいが、今は黒く濁った水が流れている。マインドは黒い水が溢れる泉しか知らないが、それでも十分美しいと思えるぐらいに夢の泉は美しかった。
 そんな夢の泉から現れたマインドが周囲をざっと見渡すと、すぐ近くに彼の主はいた。彼女は珍しく瞼を閉じており、マインドは僅かに瞠目した。本当に稀有な事であるが、魔法生物も生物というカテゴリーに属する以上、睡眠も取る。恐らく、悪夢から脱したマインドの苦悩だけでは存分に腹が膨れなかったのだろう。リソース不足だ。夢の泉の縁にもたれ掛かる様にして眠っているナイトメアの姿は酷く幼く、無防備だった。そっと近付いて、その柔らかな頬に触れそうな程指先を伸ばしても、その鮮やかな青い瞳は開かれなかった。

――ふと、思ったことがあった。

 マインドが右手を虚空に翳すと黒く空間が歪み、彼はそこから一本の黒い刃を持つ鎌を掴んで出した。そして、その刃を少女の首の前でぴたりと止めた。ぎらりと光る黒い刃に、ナイトメアの白い貌が映っていた。

――このまま、悪夢の中で飼い殺しにされるぐらいなら、いっそ。

 ナイトメアの青い瞳は開かない。これを止める者はいない。絶好の機会だ。マインド自身は主を殺す事でどうなるかは分からない。塵と化すか、或いは生き残るか。しかし、仮に消えたとしてもこの永劫の悪夢に囚われるよりは良い。餌として生き続けるよりは、ずっと良い。
 一度止めた鎌を、ゆるゆると更に持ち上げる。そして、勢い良くその鎌を首へと振った。

 鎌がその首に触れ、その血が白い肌から零れさせようとする直前に、鎌を持つ手に突如強い抵抗を感じ、マインドの手は止まった。外部からの抵抗では無かった。ただ、自分の手が鉛になったかの様に動かなかった。鎌を振り抜こうとする度に、腕はそれを拒んだ。何故、殺せない。その疑問だけがマインドを占めた。
「…ッ、畜生…」
 言う事を聞かない体が何より憎かった。殺したい筈だ。何故、殺せない。鎌を強く握り締めていた筈の拳から、その得物までも落ちた。憎い主はまだ深い眠りに落ちている様で、からんと鳴ったその音にも微動だにしない。何故こんなにも深く眠っている。安堵した様に。自分は警戒するに値しないと言うのか。
 主だから? 歯向かえない様に作ったのか? それとも。残ったもう一つの可能性に、マインドは自らかぶりを振った。殺したい程憎いだけだ、それ以外の感情など無い筈だ。目の前の少女の姿をしたこの主に、憎悪以外沸く筈が無い。頭の中で警報が鳴っているかの様だった。自分の奥底にあった"何か"に、気付きたくなかった。
「……マイ、ンド?」
 マインドの乱れた気配を感じたのか、ナイトメアはぱちりと目を開いた。どきりとした。落ちた鎌を見られれば、彼女を殺そうとしていた事が露見する。だから、マインドは咄嗟にナイトメアの視界を塞ぐ様に彼女を抱き抱えた。初めて彼女に触れた。
「え、……な、何」
「そんな所で寝ていたら風邪を引くだろう?」
 常夜のここは、冷えるだろう。口先だけ甘い嘘で取り繕った。とりあえずこの場から離れたかった。抱き留めた少女の体の細さと温かさが憎くて堪らない。こんな、折ろうと思えば簡単に折れてしまいそうな体なのに、それは出来ないのだ。
 ナイトメアは放して欲しかったのだろう、しばらくばたばたと暴れていたが、己を支える手が揺るぎない事を知ると、大人しくなった。
「……ありがとう」
 ぽそりと吐き出された言葉は、彼がいつも聞いていた色の物では無かった。本当に普通の少女の様だった。眩暈がする。触れた体が熱い。ふと顔を見ると、ナイトメアの白い頬に若干の赤みが差していた。その意味を考えたくなかった。
「……どう致しまして」
 本意も知らず、なんて愚かな。そう思っている筈なのに、言葉を震えずに零すだけで精一杯だった。愚かなのは誰だ。