骨張った指がぴくりとも動かない女の顎を撫でる。紙の様な顔色が愛おしく思え、男は微笑んだ。女の口元からは血が溢れて白いドレスの胸元を赤黒く染め上げており、瞳孔の開いた瞳が虚空をただ見詰めていた。男がここに来た頃には女は既に深く青い森の中で事切れていた。病を患っていたのだろう、女からは僅かに薬の匂いがした。
「可愛そうに、辛かっただろう」
生前女が苛まれていた病苦を思い、男は憐憫の表情を浮かばせた。女は綺麗な顔をしていたが、女の痩せこけた頬や白過ぎる肌、ぱさついた髪は病魔と闘っていた証だと思えた。男はそのままその女を紫の瞳で見詰めていた。足先から頭の天辺まで不躾とも言える程眺めると、男は動かない彼女ににっこりと笑いかけた。
「うん、君は彼女に似ている気がするよ」
男は女の胸に手をずぷりと差し入れた。男の手はそこに死肉が無いかの様に抵抗無く、女の身体に埋め込まれた。男が手を戻すと淡く光る乳白色の球が彼の手に納まっていた。男がその球を一撫ぜすると球はゆるゆると人の形を作り、暫くすると死んだ女に瓜二つの容貌へと変わった。自分と同じ姿の死体を横にしながら、半眼で宙に浮かぶ女の瞳は淀んでいた。
「だから好きだなあ」
そう言って、男はその女の波打った髪の房に口付けた。
「これからは、僕の傍にいてね」
男は女の手を握り、もう片方の空いた手を宙に翳すと、森の風景が切り取られた様に青紫色の大地が広がる異空間へのゲートが現れた。男が恭しく女の手を引いて、その門へ足を進めるとゲートはするすると閉じた。
森の中には、先程と変わらぬ姿の死体だけが残されていた。
青灰色の大地に、灰色の髪を靡かせた青年がふわりと降り立った。ひんやりとしたここの空気は心地が良く、ネクロディアスは息を吐いた。一面に広がる大地は何処までも青く、草一つ生えていない。土を照らすのは、紫紺に染められた夜空から届く僅かばかりの星の光と、松明に灯された鮮やかな紫色の炎だけだった。冷たい石と青い土が支配する小さな島が、ここネクロネビュラだった。
ネクロディアスは、眼に光の無い女性の腕を引くと、軽々と腕に抱いた。ふわりと彼の腕に納まった女は確かに身体を持ってはいたが、そこにはもう重さは存在しない。魂の21グラムが彼女を構築する唯一の重さだった。硝子玉の様な瞳で、全てをぼんやりと眺めていた。そんな彼女に微笑みかけると、ネクロディアスは黒衣を翻して、島の中央へと足を進めた。
「綺麗な所でしょ?」
「……」
何も返さない女に気を悪くする事も無く、ネクロディアスは笑った。ネクロネビュラの中央にある神殿は、四つの大きな松明に囲まれた、大地の色同じく青白い建物だった。聖堂の様な内部の奥には髑髏を象った禍々しい像が飾られていた。その像の回りには、沢山の男女が一様に光を無くした眼でぼんやりと佇んでいた。彼らは皆、足首まで覆うマントを付け、顔半分を隠す髑髏の面をつけていた。その中で一人、鎧を纏った長身の老人が、神殿に足を踏み入れたネクロディアスの高い靴音を聞くとぐるりと振り向いた。骨の兜から覗く橙色の鋭い眼が彼を捉え見ると、老人は肩を竦ませた。
「ネクロディアス様、またですか」
呆れた様に言う老人――ドクロ大王に、ネクロディアスは悪びれた風も無く微笑んで答えた。
「うん、まただよ」
その答えに、ドクロ大王は眉間の皺を益々濃くさせ、額を押さえた。彼が主としているネクロディアスはいつもこうだった。ふらふらと外に出歩いては、死体から魂を抜き出してはネクロネビュラに連れ込むのだ。何度彼が苦言を呈しても、この行動はどうしても直らなかった。
「だって似ている気がするんだよ。この鮮やかな青い瞳と、白い肌が」
ネクロディアスは愛おしげに彼女の頬のラインを撫でると、恋人にするかの様に頬にキスをした。女はぴくりとも動かずにただそれを享受していた。いつもと変わらない彼にドクロ大王は溜め息を落とすと、黒衣を彼女の肩にかけた。
「別に死人を連れ込むなとは言いませんが、多過ぎるのです。どうせドクロンにするのなら、もっと強そうな者にすれば良いかと」
「だって僕は別に世界を征するつもりは無いからね、これで良いんだよ」
ネクロディアスが女の額に手を翳すと、白い髑髏の面が創り出され、彼女の額にぴたりと貼り付いた。よく似合うよ、と微笑んで彼は女の細い指に口付けた。彼がそっと女の背を押すと、彼女はおもむろに他のドクロン達がいる方にふわふわと宙を歩んで佇んだ。
ネクロディアスはいつもこうだった。死体を見つけては、生前彼が愛していたという女性の面影を探して魂を持ち帰る。瞳が青いから、肌が似ている、指の形、爪の色、腕の長さ、足首の細さ。そんな理由をつけては数々の死人の魂を愛でている。だから、彼が持ち帰ったドクロンは老若男女を問わず無差別に溢れていた。沢山の魂を傍に控えさせながらも、彼はいつもこう言う。
「ああ、彼女に会いたいなあ。何処にいるんだろう」
ネクロディアスは空想の中で彼女を思い浮かべた。確か、髪は金色だった。だが、長さは思い出せなかった。眼の色は青だった。だが、どんな青色だったのかも思い出せなかった。綺麗な人だった。だがこれも、どんな顔だったかは思い出せなかった。
愛しい彼女の面影がはっきりと思い出せない。それが最近のネクロディアスの悩みだった。ネクロディアスがネクロディアスという個になる前、彼が人として生きていた頃に愛した一人の女性。彼女に再び会いたいが為に、ネクロディアスは幽鬼としてこの世に留まっているのに、その彼女の記憶はすっかりぼやけている。
「きっと、会えば思い出せると思うんだけどねえ」
「そう言って、もう五十年は経っているかと思えますが」
「そうだっけ」
ネクロディアスは彼が言う五十年間を思い返そうとしたが、記憶の糸の先はおぼろげだった。
「言われて見れば、君も随分老けた気がするねえ」
「それは……随分と今更ですな」
ドクロ大王は、ネクロディアスが気まぐれで育てていた生きた人間だ。今は頭蓋の線に沿って撫で付けられた髪はすっかり白くなってしまったが、小さい頃は髪の色が彼女にとても似ていたのだ。幼くして流行り病に罹った彼は道にぞんざいに捨てられていた。すぐ死ぬだろうと思ったから、そのままネクロネビュラに連れて来た。死んだら沢山愛でてやろうと待っていたのに、この島の空気が合ったのか彼は何故かめきめきと回復してしまった。そうして、彼はネクロディアスにとっては大変不幸な事に生き長らえてしまった。彼が少年だった頃の今にも死にそうだった青白い肌が酷く懐かしい。
「そうか……五十年も会えていないのか」
ドクロ大王の増えた皺を見詰めながら、ネクロディアスはそう呟いた。改めて口に出すと、その年月がずっしりと肩に圧し掛かるようだった。
ドクロ大王も、どうせなら自分が生きている間に彼が言う"彼女"と主が再会する場面を見たいと思っていた。だから、彼も全世界で死んでいった死体と言う死体を探し歩いたが、どれもネクロディアスは似ている気がするとだけ言い、ついぞ"彼女"との邂逅は未だ果たせなかった。
「ネクロディアス様。恐れながら……これほど探していないとなると、まだ彼女とやらは生きているのでは?」
ドクロ大王の言葉に、ネクロディアスは暫く呆けた顔をしていたが、次の瞬間幼子の様に目を輝かせた。
「……そうか、そうかもしれない。いや、そうに違いないよ! ああ、君は天才だ!」
ドクロ大王のしなびた頬を嬉しそうに一度撫でると、くるくると一人でワルツを踊るようにネクロディアスは機嫌良く動き回っていた。考えてみれば当然だと思えた。ネクロディアスは自分という個を認識してから、世界の何処かで人が死ぬ度にそこへ赴いては魂を見てきた。死人は誰一人として逃していない。それでも彼女が見つからないのなら、彼女は生きている。簡単な道理だった。
自分が死んだから、きっと世を儚んで"彼女"も死んだと思っていた。だが、ネクロディアスが愛した"彼女"はそんな柔ではなかったのだ。僕の死の痛みを乗り越え、一人でも逞しく強く生きていたのだ。そうやって、偶像の彼女にほう、とネクロディアスは熱の篭った溜め息を吐いた。なんて"彼女"は素敵な女性なんだろう!
「むう、せめて五年程で気づいて欲しかったですなぁ」
思わずドクロ大王がぼやくと、ネクロディアスは不服そうに唇を尖らせた。
「毎日人は死ぬし、その度に確認してたから時間はかかるのは仕方ないと思わない?」
「ドクロン達と頻繁に睦み合わなければ半分で済んだと思いますぞ」
「あはは。でもほら、ドクロ大王だって沢山僕と居られて嬉しかったから良いでしょ」
からからとネクロディアスは邪気無く笑う。実の所、ゆったりと彼と過ごす毎日は楽しかったのでそう言われると彼にも返す言葉が無くなってしまう。言葉に詰まったドクロ大王に柔らかく微笑みながらよしよしと頭を撫でてやると、彼は憮然とした表情になってしまった。
「まあ、とにかく。早く迎えに行かないとね。"彼女"が死ぬのなんてもう待っていられないや」
「ですが、生者をここに招待するおつもりですか? それは少々難しいのでは」
「むむ」
ネクロネビュラは死の国だ。余程の適正がない限り、生者がここで暮らすのは難しい。また、ネクロディアス自身も死そのものと言った存在に近い。生命エネルギーに満ちた現世では彼は十全に活動は出来ない。暫くどう迎えに行くべきか唸っていたネクロディアスだったが、ぱっと顔を明るくした。
「そうだ。いっそもう、現世全てを死の国にしてしまおう! 彼女も他の人間も、何もかも死ねば良い。これなら姦しい生き物達も全部死に絶えるし、静かになる。僕自身も彼女を直接迎えに行ける。全てが冷たくなった世界で、僕と彼女は再会して愛し合うんだ。ずっとずうっと。素敵でしょ」
自分の計画を嬉々揚々と話すネクロディアスは、もう何も耳に入らない様子だった。そんな彼の様子に、ドクロ大王は肩を竦めながらも、主人が楽しそうで良かった、と優しい瞳を向けていた。全てを殺すという狂気的な提案にも主人が命ずるならば従うつもりだった。一度世界に捨てられた彼もまた、驚く程世界に残酷だった。
簡単な事だ。とうの昔に、この二人は狂っている。
「ああ、彼女に会いたいなあ。何処にいるんだろう」
いつもの言葉を、いつもの調子で言いながら、ネクロディアスはいつもと違う物を見ていた。"彼女"に再会して、ずっと幸せに暮らす。おとぎ話の様なハッピーエンドだけを彼は夢見ていた。
【設定】ネクロディアス:ディアスという青年をベースに数多の死霊が融合した怨霊。かつて愛し合った恋人との再会を願い行動するが、大量の死霊と融合した事で、ディアス自身の記憶や倫理は大部分焼け落ちている。